disco
高校生の時だった、ディスコという言葉が巷で使われはじめ、黒人音楽に余り関心がなかったのが
ダンスミュージックとして興味を持ち始めた。
その頃には学校からも歩いていける赤坂、六本木界隈のディスコに時々行くようになっていたが
一番その音楽に親しんだのは当時盛んだったレストランやスナック、ディスコなどを貸し切ってやる
昼間のディスコパーティだ、どこからともなく名刺型のパー券が売られその筋の人間は週末になると
おめかしをして東京中出掛けていった。ステップ全盛の頃で曲ごとにそれぞれのステップがあり
またローカル色もありで友人達と道端で練習してから行ったものだった。
僕自身も高校生の頃よりそんなパーティを五反田や大井町、渋谷の喫茶店やディスコを貸し切り
で三度ほど主宰する。パー券は3千円前後で様々な人脈を辿り売りさばく、利益は殆どでなかったけど
プロモーターとしての醍醐味は楽しめた。

The Three Degrees  THE THREE DEGREES (1973)
ディスコソングとしての日本での最初のビッグヒットはフィアデルフィアから
来たこの三人娘だと思う、本国よりも注目されていた
人気はあのスプリームスをも越え、日本語バージョンもあり日本人作家も
起用したりしてヒットを続けた。
評判の悪かったこのキラキラした70年代ソウルも後にモータウンに対抗し
フィリーサウンドと呼ばれ BCM、AOR の基になったと僕は思っている
スリーディグリースといえばそのテーマソングを歌ったソウルトレインというTVショーがあった
冠スポンサーが服飾メーカーだったこともありディスコ少年やその筋の人間には過大なる 影響を与えた
同時期のTVドラマで傷だらけの天使が放映され、これもスポンサーにファッションメーカーが付き
マンションブランドなる物ができ始め、IVY色が強かったファッション界もおしゃれの方向性が変わり
ディスコの中心地もファンクな赤坂、六本木などから新宿のファッションディスコに移り始めていった
毎晩のように通ったのは新宿コマ裏のチェスターバリー、ダンスフロアは意外と小さかったけど
バーラウンジなんかも在ったりしてちょっと大人ぽいディスコ。
3年近くの間、いつも終電近くなると一人でそこに向かうのは行けば誰かがそこには居たからだ。
確か営業は4時迄でその後は歌舞伎町の深夜喫茶でバイトまでの時間を潰すか六本木に流れて
朝までやってたスクエアビルのディスコで踊り直すなんてことを繰り返ししていた。
依って写真学校には在籍していた頃なのに当然の様に写真なんてものは一枚も撮ってはいなかったし、 将来の夢もなかった。音楽的には素敵な時代だったけど自分にとっては最低の時だった

I Hope We Get to Love in Time   Marilyn McCoo & Billy Davis, Jr.(1976)
そんな時よく流れていたのはスローなこの曲
You Don't Have To Be A Star (To Be In My Show) 
スターなんかならなくっていいよ、私にだけ見せて輝くあなたをと歌う、
なんか切ない曲だけど、うなずける歌だ
空が白み始める歌舞伎町に立っている自分のいやな気持ちを今でも憶えている
その新宿歌舞伎町を抜け出せる時が意外なところからやってきた
映画サタデイナイトフィーバーのヒットだ、界隈はビージーズのステインアライブが鳴り響いていた
歌舞伎町に来る人種が変わり、その音も踊りも好きではなかった、でもなによりも居心地が悪かった
だが後に思うにはそれは僕に幸いしたようだ。
The RITZ / NYC
それから数年が経った、フリーランスのフォトグラファーに
なっていた、フリーになって直ぐにニューヨークに行った、
夜な夜なDiscoやClubをはしごした。
どこもドラッグの匂いが蔓延し危険な香りがしたが居心地は
悪くない。その中でも何度か通ったのはTHE RITZ、
建物は古く巨大なNiteCulbだった。そのフロアに響く低音は 凄まじく立ってるだけでも不思議な空間だったのを憶えている

KID CREOLE AND THE COCONUT- LIVE AT THE RITZ (1982)
当時のNewYorkのDiscoやClubではREGGAEや流行り始めたRAPが中心に
ローテーションされていたが彼等のような異色なトロピカルディスコとも
呼ばれていた曲達も掛かっていた

これはLDで1982年にTHE RITZでLIVEした時のもの、これを見ていたから
そこには行きたかった、映像が素晴らしく楽しめるけど音だけでも充分。